サンシー フランスと共にあるダイヤモンド


サンシー フランスと共にあるダイヤモンド

 

サンシー ダイヤ

権力のために

サンシー・ダイヤモンドは、全ての著名なダイヤモンドのなかでは、最も混乱した歴史を持っているひとつになります。

 

現在は、”サンシー”と認められるにいたったダイヤモンドの重量は55.23カラットであり、その歴史はフランスの歴史と非常に深く絡み合っていることから、パリのルーブル博物館に展示されているのは至極もっともなことと言えるでしょう。

 

名前の由来

このダイヤモンドの名前は、アルレー家の分家の末裔である、ニコラ・アルレー・ド・サンシー(SANCY)からとられています。

 

サンシーは1546年に生まれて、フランスの最高行政裁判所主事にまで出世しました。

 

さらに2年後、当時の国王アンリ3世がスイスの大使に任命したために、サンシーは法律家、外交官、財政家そして、ダイヤモンドコレクターなど、多彩なキャリアを積んでいくことになりました。

 

”サンシー・ダイヤモンド”との出会い

いつどこで、誰からサンシーが、このダイヤモンドを手に入れたのかはっきりとは分からないのが実情で、一説によると、彼はドン・アントニオ・デ・カストロから買ったということで、カストロは、ポルトガルの国王になり、スペインとの戦争に敗れてロンドンに亡命してから、改めてスペインと闘うための軍資金として活用するうちにサンシーが購入することになったという説です。

 

もうひとつの説は、サンシー自身が、東洋から買い求めて持ち帰ったというものです。

 

資金調達手段

サンシーは、ふたりのフランス国王に対して忠誠を尽くしていて、ひとりはアンリ3世で、サンシーは、自身で持っているダイヤモンドをフランスの役に立つと思い、サンシー・ダイヤモンドをアンリ3世に売却します。

 

そのときのダイヤモンドは38カラットほどのもので、後に”ボー・サンシー”と呼ばれるダイヤモンドではないかと推測されますが、いずれにしても、本来の”サンシー・ダイヤモンド”もフランスのために活用することになるのです。

 

そして、この”ボー・サンシー”を所有していたことは、重要なダイヤモンドのコレクターとしてのニコラ・ド・サンシーの名声を示す証拠にもなります。

 

そして、もうひとりはアンリ4世で、アンリ3世は子供がなく、ナヴァル王アンリを後継者に指名し、彼はアンリ4世として王位に就いたのです。
(ナヴァル国はフランスに隣接した国で1620年に消滅しています)

 

その新しい国王はサンシーを大蔵大臣に任命し、国の財産になっている”サンシー・ダイヤモンド”を、国内の動乱を鎮め、反映を取り戻すための資金を得るための担保として活用するように伝えます。

 

このように、フランス国内の政府資金の調達手段のための担保として幾度も、そのときの債権者の手元に渡ることになります。

 

輝きのとき

このダイヤモンドが最も素晴らしい使い方をされたのは、1772年にルイ15世の戴冠式のために、王室御用達の宝石商が製作した大きな王冠にセッティングされた時でしょう。

 

この王冠には、現在、同じくルーブルに展示されている”リージェント・ダイヤモンド”も使われていました。

 

ルイ15世は、真珠とダイヤモンドで製作した「肩の飾り結び」には、リージェント・ダイヤモンドをセッティングし、”サンシー・ダイヤモンド”は、帽子の大きな留め金飾り(輪とホックを用いた飾り留め金具)に使ったのです。

 

妃のマリー・レチンスカも、多くの国家行事の席で、ペンダントにセッティングした”サンシー・ダイヤモンド”を着用していました。

 

展覧会

1962年、”サンシー”は、「フランス宝飾品の10世紀」と銘打った展覧会において、フランスの歴史に残るほかのふたつの著名なダイヤモンドである、”リージェント”と”ホープ”と共に、ルーブルで展示されました。

 

サンシーの長い歴史上、サンシーはいくつか存在して、”本物”のサンシーを巡って議論が絶えないときもありますが、現在はフランス当局の見解と、アメリカ宝石学会と科学的な根拠よって支持されています。

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