リージェント ダイヤ フランスの宝物
18世紀の始めに東方貿易に携わるトーマス・ピットが、どうやって400カラット以上ものダイヤモンドの原石を手に入れたかについては様々な説があります。
そのひとつは、インドのキストナ川の下流にあるこの鉱床で、最初に発見したのは鉱山で働く奴隷で、彼は自分のふくらはぎの傷に巻いていた包帯に隠して運び出したというものです。
そして、奴隷は海まで逃げて、そこでイギリス人の船長に出会って、ダイヤモンドのことを打ち明けます。
その話の内容は、奴隷が自由の身になるために国外まで船に乗せてもらう代わりに、船長にダイヤモンドの儲けの半分を渡すと約束する内容です。
ところが、奴隷を船に乗せた船長は、ダイヤモンドを手に入れると奴隷を殺して海に投げ込んでしまいます。
そして、船長は貿易に明るいトーマス・ピットに1000ポンドでダイヤモンドを売ったのです。
しかし、その船長は良心の呵責に耐え切れず、その金をアッという間に使い果たすと、あっけなく首を吊ってしまったというのです。
140.5カラットのクッションカット
ピットは、そのダイヤモンドをイギリスに持ち帰るのですが、これだけの大きなダイヤモンドなので瞬く間にイギリス中に広がり、おぞましい噂話が流れ始めます。
その噂の内容はどれも、正当というにはほど遠い、不法なやり方でダイヤモンドを手に入れたのだろうというものばかりだったので、ピットは早くも手放すことを考えます。
それには、商品価値を上げる必要があり、これだけのダイヤモンドをカットすることができる、イギリスでも第一人者のコープに依頼することにします。
そして、コープはこのダイヤモンドをカットするのに、2年の月日を費やすことになり、ピットが支払った費用は総額5000ポンドにもなりました。
こうして、ロンドンのジョセフ・コープによって、140.5カラットのクッションカットが誕生します。
それは、幅25.4mm、長さ25,4mm、暑さは19mmあり、歴史のある有名なダイヤモンドのなかでは、もっとも完璧なカットと評価されています。
そして、ダイヤモンドの名は「ピット・ダイヤモンド」と呼ばれるようになります。
困難な売却
この壮麗なダイヤモンドを所有している間は、ピットの心は安らぐことはありませんでした。
彼はいつも、このダイヤモンドを失うのではないか、盗まれるのではないかという恐怖心に取り付かれていたのです。
そして、ピットは二晩として、同じ屋根の下で寝たことはなかったのです。
居場所を変えるときは変装し、ロンドンを出るときも、戻るときも決してひとには知らせず、隠密に行動していました。
しかし、ピットは何とか早く、このダイヤモンドを売り払おうとしましたが、それはとても難しく、時間がかかることであるとわかったのです。
それは、当時売りに出されていた、どのダイヤモンドよりも遥かに大きく、流通相場がないために価格を決めることさえままならず、何人もの専門家に相談しましたが、いづれも役には立たなかったのです。
ルイ15世の王位就任
しかしながら、ルイ15世がフランスの王位に就いたことで売れるチャンスがやってきます。
本来、フランス王位に就くはずの男子が戦争などで、皆亡くなってしまったので、若干5歳で国王の座に就くことになったのです。
そして、当時のフランスは財政難であり、スコットランド人の銀行家であるジョン・ローもフランス政府を財政難から救出しようとしていました。
そのような状況下になりながら、ジョン・ローの元に、ピットのダイヤモンドの売却話が舞い込みます。
そこで、フランス政府や公爵たちの議論の結果、フランスもこのような宝石を所有するべきという意見が押し切る形で、公爵も譲歩し、財政を工面して、250万ルーブル(13万5000ポンドで)で、購入することにします。
そして、フランス政府が買い取った後は「レジャン(摂政)・ダイヤモンド」、英語表記で「リージェント・ダイヤモンド」と呼ばれるようになります。
ルーブル美術館へ
それ以来、ナポレオンの妻、マリー・ルイーズによって持ち去られたり、財政難のために担保になるなど、一時的に国外に出ることはあってもフランス政府の管理下にあって、時代を経てその代々の王妃を飾りながら、この素晴らしいダイヤモンドが、フランスの歴史に果たした地位はしっかりと認識されていったのです。
そして、リージェント・ダイヤモンドはルーブルのアポロン・ギャラリーに永久展示されることになりました。