ティファニー イエローダイヤモンド
トルーマン・カポーティの小説”ティファニーで朝食を”が、あの有名なニューヨーク宝石店の、さらなる権威を上げるための役に立っていることは間違いないでしょう。
確かに今でも、同店が客に朝食を出すかどうかの問い合わせは続いていますが、ホリー・ゴライトリーという愉快な名前のヒロインが求めていたのは、食欲を満たす楽しみではなく、ショーケースのなかで輝く、すばらしい宝石たちを眺めることから得られる、精神的な満足であったことでしょう。
1837年にチャールズ・ルイス・ティファニーによって創立されたティファニー社は、指折りのダイヤモンド商になります。
ティファニーの躍進
1848年のフランスの政治動乱期にティファニーは相当量の宝石類を購入したり、1887年に行われたフランス王室の宝飾品の売り出しにおいて、単品として売りに出されたなかでは最もすばらしいといえる、ウージェニー皇后が使用していた見事なダイヤモンドネックレスと、4個の有名なダイヤモンドに、そのほか数点と共にティファニーが落札して、最終的には、その売り出しでティファニー社は最大の買い手となっています。
ダイヤモンドの追求
さらに同時代に南アフリカで大きなダイヤモンドが発見されます。
ティファニー社は南アフリカでも積極的で、125カラットの原石からカットして77カラットになったライトイエローのクッションカットのダイヤモンドや、51カラットのすばらしいイエローのダイヤモンドを購入します。
しかし、これらのダイヤモンドも、同社の名前を冠した287.42カラットのダイヤモンド原石に主役の座を奪われることになり、原石はカットされて最終的に128.51カラットになり、”ティファニー”ダイヤモンドの誕生します。
ところで、”ティファニー”ダイヤモンドの発見は1877年か1878年と信じられていますが、いつ発見されたかについては正確な情報がなく、発見場所もはっきりせず、一説には「デ・ビアス鉱山」とか「キンバリー鉱山」などさまざまに書かれてきましたが、”ティファニー”が発見されたのは、南アフリカ産の大型ダイヤモンドの発見の記録が正確に残されるようになる以前のことでした。
原石からのクッションカット
原石はカットのためにパリに送られて、専門家たちが1年かけて調べた後、その原石は優れた宝石学者であるジョージ・F・クンツの監督のもとでカットされて、最終的に128.51カラットのクッションカットのブリリアントになりました。
ファセットはパビリオン(ダイヤを横から見て下側半分)に48、クラウン(ガードルからテーブル面手前まで)に40、そしてテーブルとキューレットを加えて合計90面のカットが施されていて、余分なファセットを付けたのは、ダイヤモンドの輝きをくすぶったような輝きよりも、もっとキラキラと光るようにするためで、このダイヤモンドは、ライトなどの人工光線の下でも豊かな色を失わず、太陽光線に当てると、より美しく輝きます。
”ティファニー”ダイヤとして
”ティファニー”はアメリカ到着後しばらくの間は、宣伝はほとんど行われませんでした。
それは、ちょうどこの頃、南アフリカからイエローを帯びたダイヤモンドが、かつてなく大量に産出されていて、この”ティファニー”もまた単にそうした大量にあるダイヤモンドのひとつかもしれないとチャールズ・ティファニーが心配したため、意図的に広告をしないという方針をとったとされています。
しかし、ライトイエローやイエローを帯びたダイヤモンドは、極めてめずらしいカナリーイエローとは、はっきり区別しておくべきであり”ティファニー”はカナリーイエローとしては最大のダイヤモンドです。
”ティファニー”の存在が広く知られるようになったのは、1896年に、中国を支配していた3人組のひとりである宰相の李鴻章について、時のアメリカ大統領であるグラントは次のように言ったとされています。
「世界には偉人が3人いる。グラッドストーン、ビスマルク、それに李鴻章だが、最も偉大なのは李鴻章だ」と。
その李鴻章がニューヨークを訪れたときに、彼は見たいものがひとつだけあって、それは”ティファニー”ダイヤモンドだと述べました。この要請をティファニー社は喜んで受け入れたのです。
※グラッドストーン(1809〜1898年)・イギリスの政治家であり首相。
※ビスマルク(1815〜1898年)・ドイツの政治家であり首相。
※李鴻章(リ.コウショウ,1823〜1901年)・中国清代の政治家。
逸話
この宝石を指輪にして身につけた女性は世界で、たったふたりしかおらず、ひとりは舞踏会が開かれたときのホスト役のシェルドン・ホワイトハウス夫人、そしてもうひとりは1961年、映画「ティファニーで朝食を」の宣伝として身に着けたオードリー・ヘプバーンです。